夕暮れ時の公園。ベンチに座る「僕」の足元に、一匹の三毛猫がすり寄ってきました。
野良猫にしてはあまりに無防備で、人懐っこいその仕草。しかし、僕がその猫を「ただの猫」だと思えなくなったのは、ほんの些細な、けれど決定的な**「癖」**を目にした時でした。
始まりは、右足のステップ
5年前、妻の陽子を亡くしてから、僕の時間は止まったままでした。
ある日、仕事帰りに立ち寄った公園で出会ったその猫は、僕の姿を見つけるなり、タタタッと駆け寄ってきました。そして、僕の膝に乗る直前、右足を一度だけ「クイッ」と外側に跳ね上げたのです。
それは、生前の陽子が、嬉しいことがあった時に無意識に見せていた独特の歩き方の癖そのものでした。
「まさかな……」
僕は苦笑いしながらも、その猫を「ハナ」と名付け、毎日公園へ通うようになりました。
確信に変わる瞬間
ハナは他の誰にでも愛想を振りまくわけではありませんでした。他の散歩客が近づくとサッと物陰に隠れるのに、僕が姿を見せると、まるで待ちわびていたかのように足元に飛び込んできます。
ある日、僕は冗談半分に、家から持ってきた**「あるもの」**を差し出しました。
それは、小さな銀色のピアス。
陽子が一番気に入っていた、片方だけ失くしてしまったはずのピアスでした。
ハナはそのピアスを見ると、小さく喉を鳴らしました。そして、僕の掌にあるピアスを鼻先でそっと突き、そのまま僕の左手の薬指を甘噛みしたのです。陽子が機嫌の悪い僕をなだめる時に、いつもやっていたように。
僕の視界が、急に熱いもので滲みました。
伝えたかったこと
「陽子、なのか?」
問いかけると、ハナは「ナア」と短く、どこか誇らしげに鳴きました。
彼女は、僕が5年間ずっと自分を責め続けていたことを知っていたのかもしれません。
「もっと美味しいものを食べさせてあげればよかった」
「もっと一緒に旅行に行けばよかった」
「最後に、ありがとうと言えなかった」
そんな僕の独白を、ハナは静かに、ただ寄り添って聞いてくれました。彼女の黄金色の瞳は、**「私はもう大丈夫だよ、だからあなたも前を向いて」**と語りかけているようでした。
新しい春
季節が巡り、公園の桜が蕾をつけた頃、ハナの姿は公園から消えていました。
近所の人に聞いても、「最近見ないね」と首を振るばかり。
寂しさがこみ上げましたが、不思議と絶望はありませんでした。ハナがいなくなったあとのベンチには、陽子が大好きだった、春の柔らかな日差しだけが残っていたからです。
僕は立ち上がり、久しぶりに深く息を吸いました。
ハナが教えてくれた通り、止まっていた時計の針を、自分の手で進めるために。
「またね、陽子。次は、もっと素敵な場所で」
僕は一度だけ後ろを振り返り、彼女がよくやっていたように、右足を少しだけ軽やかに踏み出して歩き始めました。

0 件のコメント:
コメントを投稿